人間というものについて、改めて認識し直しているところですが、
人間のマインドというのは、人間活動の無意識以外を司っていて、本当にあれやこれやしています。
悟りというのは、人間マインドから離れ、内奥の意識とともに創造することですが、
その状態でもマインドは存在します。人間的なところも残っていますが、無駄なところは機能停止にしています。

エックハルト・トールは「人間のマインドは機能不全だ」といっていますが、その通りで、実に失敗ばかりしますし、無意味なことばかりしています。
悟りの道の途上にある人たちは、この失敗や酷い体験がとても多くなる傾向にあります。

マインドは世界を限定的にしか見られませんが、その中で、起こっている現象や出来事に対して、フォーカスを当てて、なんとかうまくやろう、なんとか好転させようと思考を巡らせ、行動化します。
それはいうなれば、自分の周りの世界に対して、頭から触手が伸びて、その対象に絡まっていく感じです。
もちろん、他のことは見えにくくなります。しかし、触手が伸びるということは、そこに感情的理由や願望があるということですから、人間の創造においてごく自然なことです。

ぼくはわかったのですが、この触手は爆弾の導火線です。
どんどんと触手の先の対象は膨れ上がっていき、爆発しそうになります。
絡まる時間が長く、願望が強いほど、その爆弾は大きくなり、爆発したとき散々な目に遭います。

ぼくの人生では、ことごとく爆発してきました。
どんなに丁寧にやろうが、どんなに賢くなろうが、どんなに技術を磨こうが、絶対に爆発して傷を負います。
人間たちは、よくこんななかで、時に幸せや成功をつかんでいるな、と感心します。
おそらく、内なる旅をしている人ほど、人間マインドから離れさせるために爆発するのでしょう。
だからぼくは幸せでない人生を歩んできました。

幸せになることも、マインドからの触手であり、
あらゆることを考え、あらゆることを試しましたが、幸せになることはありませんでした。
なにか違うという感じでした。

マインドの触手を引っ込めることが、受け入れること(allowing, acceptance)です。
でも、これは本当に難しいなと思います。
どんなに、「このまま絡まっていても欲しいものは手に入らず無意味なだけなのに」と思っていても、どんどん爆弾にエネルギーを与えて、膨れ上がらせてしまいます。
それが願望だからです。

神なる人間として、完全に受け入れることができるようになったら、
触手で体験をつかみ取ろうとするのではなく、全身で感じるようになるでしょう。
触手で撫でることはあっても、絡めて、「なんとしてもほしい、なにがなんでも手に入れる」と、エネルギーを注ぐことはなくなるでしょう。

そうすると願望はどうなるのでしょう? 内なる情熱がよりメインとなるでしょうね。
真の自己からくるパッションです。
でも、真の自己は人間の自己の願望を実現させることがその機能ですから、パッションには人間の自己の願望が反映されているはずです。

マインドは人間という枠の中では素晴らしい機能ですが、
マスターの視点からみれば、爆弾と悲劇の人間ドラマばかりを創造する、ゴミみたいなものです。
だから人間をやめることが大切に思えるのです。