わたしたちは、神の粒子が物質化された次元を生きています。
わたしたちは、神に覆われていて、本当は神と一体なのですが、個というものを分離させて存在しています。
けれども、わたしたちは常に神と一緒で、望むものや恩寵はそこにあるのです。

愛とは、コミュニケーションです。
愛とは、分かち合いです。
愛とは、エネルギーの交換です。
愛とは、与えて受け取ることの総合です。

特定の相手と、恋人だったり友情だったりの特定の愛し方をすることも、
好きな食べ物を食べたり、好きな家に住んだり、好きなものを買って楽しんだりもコミュニケーションです。
その対象と繋がっています。そこに実在があると、イェシュアは「愛のコース」で語っています。

しかし、マインドがやっていること、認識していることは、実在するエネルギーの交換ではなく、なにを手に入れられたかとか、好み通りだったかとか、特定の形や特定の愛し方に限定されています。だから不平不満がいとも簡単に現れます。

究極的には、「私」という主体と、私と連動した「神」とが融合したコミュニケーションこそが愛であり、生きるという最も純粋なレベルで行われていることです。

その究極の純粋な状態へと、帰りたいのです。

さて、愛というものの真の姿がわかったところで、
エネルギーの交換、分かち合いをしようとしたときに、
あなたの愛は否定されたり、拒絶されたりします。
与えてもなにも返ってこなかったりします。

そうすると、マインドは苦しくなり、愛が得られる場所や人を探し続けます。
多くの人は、恋愛などで一時的に愛を得られたと思いますが、
それは永続せず、何度も探すことになります。

このとき、マインドには恐れが生じていて、価値判断が生じています。
「こんなはずではない」「求めているのはこれではない」
「せっかく手に入れたのにどうして失ってしまったのか」
というマインドの解釈もなるほど納得感があります。
恐れを正当化し、不平不満を正当化するには充分な理由です。

けれど、そんなマインドが恐れを起点に、愛とは思えないものを引き寄せていることに気づいてください。
恐れであっても、人はそれを求めています。
罪の意識を持つ人は、罰を求めてしまいます。

純粋な愛に帰るためには、愛が得られなくても、満足できなくても、
こっぴどく打ちのめされても、神との交流であるというエッセンスに立ち戻って、
抱き入れなくてはいけません
マインドの不平不満と価値判断を棚上げし、起こっている全てが自分の投影であると理解して、
抱き入れなくてはいけません。

涙も苦しみも、抱き入れて、防御で身を縮ませず、オープンに受け入れます。
もちろん、あなたは涙も苦しみも、もう求めたくはないのです。
手放したいのです。
そういうときには、一番抵抗しているマインドをそっとしておいてあげて、
ハートでただ受け入れましょう。

エネルギーの交換、交流。分かち合い。与えることと受け取ること。融合すること。
本当に素晴らしいことです。
その中で、喜びを感じていいのです。
そこに愛を感じていいのです。
受け取っていいのです。

神を全的に愛することは、あなた自身を全的に愛することになります
幻想ではなくエッセンスを見ましょう。
形ではなく、純粋なるエネルギーを感じましょう。