キリストの伝説にも、釈迦の伝説にも出てくる悪魔ですが、
その呼び名はいろいろあれど、結局の所、自分自身こそ悪魔だということができます。

悟りの道に入った人は、エゴと向き合わなければいけません。
エゴとはいなくなったと思っても、隠れているものです。
隠れているといっても、大胆に隠れています。
自分自身と融合してしまっているからです。

悪魔とは、融合していたあなたの一部です。
それが、ささやきかけてきます。
神のエッセンスと違うものを、例えば執着はエゴだ、金欲はエゴだ、というように
ラベリングすることで、エゴを明確化もできます。

しかし、一番恐いのは、悟っている自分もまたエゴになっているということがあることです。
世の中の例でいうと、大層高尚なことをいっていたり、影響力の強い人がいますが、彼らの多くはエゴを通して語っています。

その辺から、逃れてくると、どうしても人と関わらなくなったり、自然の中に入って行きがち
なのですが、人と関わり人に伝えなければ愛の行使といえません。
だから、ぼくも何もしない状態に陥りそうなのですが、内なる情熱の火を消さないようにして、
人の中に入っていこうとしています。

知るということ。叡智。
これを極めた悟りの状態では、まだ悪魔が存在しています。
だから、イエスも釈迦も、悟った後に悪魔が襲いかかってくるのです。
真の問題は、悟ったあとに、悪魔を振り払えるかどうかではないかと最近思います。

というのも、ぼくはエゴを丸裸にして、隅々に至るまで瓦解させてきましたが、
意外なところから悪魔がいるものだと思いました。
いやぁ、うんざりですね。
悪魔を避けて安住にほっとした自分が、ふと鏡をみると自分が悪魔だったと気づくような衝撃です。

この話は、またいずれしましょう。
とにかく、エゴの繁茂の仕方、悪魔の出現の仕方は、本当に侮れないものです。
悟りがシンプルであって、簡単でないのは、ここにあるでしょうね。