分離一体といわれますが、人々はこれを正しく理解できていません。
ぼくもずっとそうでした。ずっと分離を解消しよう、一体性に回帰しようとトライしながら、
よくわかっていないために成し遂げることが出来ませんでした。

これはどんなに丁寧に言葉で説明しても、理解できることではありません。
いくら理解しても辿り着かない距離感があります。
丁寧に言葉で説明して理解できるのであれば、とっくに悟りに達する人が続出しているはずです。

結局は自分で発見し、心底そうだと納得しないといけません。

分離はありません。
分離がないということ、根源的にわたしたちは大いなる源と繋がっていて一体であるということは
ここまで長く旅してきた人にとっては、よくわかっていることでしょう。

分離という言葉を少し変えて、別角度から突っついてみましょう。
よくわかっていることを、様々な別角度からアプローチすることが大切です。
分離とは、自分が作る区切りです。自分が作った境界線によって分離が成立しています。

わたしたちは元々一体で、今も一体ですが、自由創造の権利と、個別の旅の開始から、
自分という枠組みを形成しました。それは、絶対的ではありません。
例えば、あなたのなかに、優しさ・頑固さ・怒りっぽさなどの色々な性質があるのはわかっているでしょう。
分離とは、ある日を境に、「怒りっぽさ」のみにしたようなものです。
本当はたくさんの性質をもっていますが、怒りっぽさの枠組みをつくり、それが自分だと
信じ込んだことによって、分離が成立しました。

分離と一体とは、そのような架空の枠組みだったのですが、とてつもない長い年月をかけて維持し、
その枠組みを強化してきました。

目覚めというのは、こうした枠組みが、架空に作ったものであったことに気づき、
本当はもっとたくさん持っていたんだと気づくことです。
ですから、あなたは全てを持っているといわれるのです。
この「全てを持っている」ということも、皆さんは正しく理解できていません。
枠組みがなければ、全てがそこにあるのです。
枠組みを作るから、全てを持てないのです。

小さなあなたよりも遙かにたくさんのバリエーションを備えた大いなる源は
本当のあなたと呼ばれる真の自己です。
しかし、小さなあなたと、真の自己との間に区切りもないのです。
けれど、区切ってしまっているのです。境界線を引いてしまっているのです。

皆さんにとって真の自己は、得体の知れない遠い存在であるか、
掴めないけれど安心感を与えてくれそうなフワフワした存在であるかもしれません。
そうやって、自分とは別に真の自己を想像している間は、一体になることができません。
それは、自ら明確に区切りをつくっていることに他なりません。

内と外をつくってはいけません。
境界線を消すのです。
太古からそれが「悟り」といわれ、エイブラハムは「ソースエナジーとの調和」といい、
キリストは「故郷に帰る」といったのです。

おそらく、よくはわからないことでしょう。
しかし、あるとき、悟り間際に達すると、「あぁ、こういうことか」とわかります。