最終的には、全てを受け入れること
なんですが、allowing(受け入れる)、receiving(受け取る)、surrender(降参する)
ということが何千回といわれるなか、なかなかできません。
できないという自覚がある人もいますが、これ以上ない状態をつくって、できている確信があっても、結果が伴わないという人もいます。

こんなに簡単なことが、できない、うまくいかない、
というのはスピリチュアル最大の謎であり障壁であるといえるでしょう。
エイブラハムも、サン・ジェルマンも、ラムサも、イェシュアも、みんな同じことをずーっといっていて、それでも到達する人がほとんどいない、という。

ぼくは今回、なぜ到達できないのか、なぜうまくできないのか、わかった気がします。

まず、受け入れるものとはなにか。それは神の贈り物です。
全てがうまくいくという神の贈り物を、みんな受け取りたいですし、最大限努力しています。
神の贈り物が、わたしたちの領域に入ってきたときに、それは変質してしまいます。
ありのままを、透明なままに受け取ればいいのですが、領域に入った瞬間、
人は細かく検査し、価値判断を下し、自分にとって良いか悪いか、快か不快か、役に立つか立たないかを決めます。
そして、エゴを投影した贈り物へと変質します

降参し、価値判断しない訓練を受けてきた人にとっても、
贈り物に対する、ちょっとした緊張感や不安があります。
本当に良いものだろうか? 良いものっぽいけど、今度こそ変えてくれるだろうか?
また同じ落胆の目に遭うだろうか? など、実は素直に受け取れない精神状態になっています。
せっかく価値判断を克服し、大きく手を開いて招こうとしているのに、
神の贈り物は、その人の緊張感や不安、固さを認識し、離れていってしまいます
そして、また贈り物が届けられない体験をし、神への不信感、落胆へと戻っていきます。

他にも理由があります。なんだかんだ現状の自分自身を保持する波動を発しています
それは、良い意味で捉えれば、自分はこうだという主権と尊厳です。
悪い場合は、自分には価値がなく、不足や無力感を持っているというレッテル貼りです。

神の贈り物は、新しい価値観となりうるものです。
それは愛であり、豊かさであり、神聖さでもあります。
それらが本当に入ってきたら、あなたの保持は崩れ、あなたは変わらざるをえません。
心の中で変わりたいことを死ぬほど望んでいても、どこか一方で、変わらないのが自分だと思っています。
このことによっても、神の贈り物は入ってきません。

ですから、ただ受け入れるだけ、受け取るだけなのですが、
何重にも複雑なトラップがあって、神の贈り物がほんのちょっとしか流れ込んで来ないのです。

完全に信頼し、完全に身を預けることができるでしょうか?

ぼくは完全に降参したときであっても、そこに挫折と絶望の領域を築いてしまいました。
防御していた、城も壁も崩壊したのに、
あとは神の贈り物を招き入れるだけなのに、
自分は「全てを失った無力な存在」というものを築いてしまいました。

何度か、自分を守る城や壁を破壊する大爆発が人生において起こります。
そのたびに、本当に苦しい思いをします。落胆し、真っ白になります。灰になります。
そこから、全てがうまくいくようになればいいのですが、
神の助けは入ってこず、灰からまた城を築くことが始まります。
これは、自分が、不足感や無力感、挫折感を完全に手放すことができなかったからです。

当然のことながら、最悪の状況、喪失した状態で、喜びや幸福を感じられるはずはなく、
惨めな思いを感じるのですが、その惨めな思いによって、また神の贈り物を締め出すのです。
なんと恐ろしい悪循環でしょう!

なにもうまくいっていない状態、なにも変わっていない状態で、
私たちは完全に信頼し、楽しくリラックスし、喜びや幸せを感じないといけないのです。
そうしないと神の贈り物は、本来の姿で届けることができないからです。

スピリチュアルの道で最もシンプルで最も困難なことこそ、
受け入れること、受け取ることなのです。

何重ものトラップを全解除できたら、
神の贈り物で満たされる人生となります。

そこもわかってきました。