イエスとシェイクスピアの違い

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    イエスとシェイクスピア

    シェイクスピアの正体を知って以来、頭の中でいろいろ巡っています。
    かなり繋がりのある存在なのです。
    オックスフォードも、一番行きたかったところで、なんか格好いいなと思っていました。

    で、一つ、大きな大きなことに気づきました。

    それはメッセージの伝え方についてです。

    イエス・キリストの言葉は新約聖書となりましたが、これはかなり歪められています。
    すべてをイエス自身が綴った「奇跡のコース」。
    (これは文体がシェイクスピアの好んだ弱強五歩格がよく使われています)

    「奇跡のコース」も、学習者の解釈間違いは多いですし、悪用されているケースもあります。

    宗教的になると、どうしても利害の対象となり、メッセージが純粋な形で伝わらなくなります

     

    一方で、シェイクスピアというと、
    メッセージは自由な解釈で、ポジティブな意味を持ちながら、世に広まっています
    様々な形態の演劇の形で人々の心に響き、また名言としてインスピレーションを与えています。

    宗教的になると、自由な解釈がネガティブな方向にいきがちですが、
    演劇になると、自由な解釈がポジティブな方向にいきます。
    その人なりの受け取り方を自由にできるのです。

    宗教的、スピリチュアル的な言葉も自由でいいのですが、
    指導者たちが自由さを奪い、我こそは正しいと主張します。

    演劇において、それはありえないのです。

    ウィリアム・シェイクスピアが俳優の、あの男であれば、
    そんなメッセージ性を考えはしなかったでしょう。その理由が見当たりません。
    しかし、エリザベス朝の政治の中にいたオックスフォード伯エドワード・ド・ヴィアであれば、
    映画「もう一人のシェイクスピア」で描かれているように、メッセージを伝えることが
    とてつもなく重要で強力なツールとなるのです。

     

    だから、ぼくは劇作家としてのキャリアをスタートさせたのではないでしょうか?
    16歳の時から、ぼくは戯曲を書くとき、メッセージを人々に伝え、目覚めさせることを考えていました。
    (それだけに、周りの大人たちには受け入れられず、コンクールでも落選したりしてきました)

    ぼくは、10代のころ、特に考えたのは、幻想を使うことです。
    ファンタジーです。

    幻想の中でメッセージを伝えるべきだと思っていたのです。

    この世界は幻想に過ぎませんが、幻想の中で人々と繋がり、
    赦し、メッセージを届けなければならないとイエスはいいます。

    まさに、幻想を使った、演劇を使った、
    ぼくなりのメッセージの届け方を実践していたのです。

    ただ……、人に理解されず、作品が広まらないことに、
    大きな大きな失望を感じていました。
    (だから、作品の形態も、今はファンタジーを使わなくなりました)

    自分の大いなる目的と、現実が、とてつもないギャップを生んでいることに、
    無意識レベルから意識レベルまで感じ取っていたのかもしれません。

     

    しかし、引き寄せの法則を知り、目覚めた今は、
    演劇における幻想の使い方だけでなく、
    この世界における幻想の使い方を熟知しています。

    これからは大いなる目的を達成することもできるかもしれません。

     

    やはり、ぼくは、戯曲を書くべきでしょうし、上演させるべきなのでしょう。

    自分がこれまでやってきたことが、遥かに大きな枠組みの中で、成されていたことだと、
    改めて実感しました。

    全てが繋がっています。