これがたった一つの自分の世界。
たった一人のフォーカスによる自分を映し出した世界。
たった一人のフォーカスによる本当の自分もエゴの自分も体験できる自由な世界。

そんな素晴らしさを噛みしめるときがあります。

 

思えば、ぼく自身苦しい人生を歩んできました。
中学1年くらいまでは最高に楽しかったのですが、
それ以降は「負のオーラ」をまとっていた時代が長くありました。

今振り返ると、それは「当然こうであるべき自分の姿」と「現実の姿」のギャップからくる、
欠落感・未達成感・認められなさであった気がします。

 

そうまでしてなにを認められたかったのだろう?と思い返してみると、
「こうだという自分」を世界に焼き付けたい、
「この世界に自分あり」というのを気づいてもらいたい、
そういう気持ちだったのかもしれません。
人間とはそういうものなのでしょう。

 

ソースは全ての存在を愛の目で見ているといわれても、
わたしたちはその証を欲しがります。

自分だけを認めてあげればいいのです。
外の世界はいったん差し置いて、自分だけで完結させていいんです。

 

自分の心は外に投影されます。

 

あなたの目の前に鏡があり、
そこに、浮かない顔をしたあなたが立っているとします。
顔には、泥がついていたり、傷も見えます。

そんなときあなたにできることは以下のことではありません。

鏡に向かって、愚痴をこぼす。
鏡に映る泥を拭こうとする。
鏡に薬を塗り、絆創膏を貼る。

あなたにできることは以下のことです。

自分自身を鼓舞して明るい顔をする。
自分自身の顔を洗う。
自分自身の顔に薬を塗り、絆創膏を貼る。

 

つまり、鏡に映っているほうに手を伸ばすのではなく、
鏡の前に立っている自分自身を改善するのです。

どんなに辛くても、自分の命を絶つという、元も子もないやり方は推奨できません。
その必要性がないのです。改善の道が、逆転の道が、最高の幸福の道が存在するのですから。

しかも、死にたくなるくらい辛い思いをしたなら、相当の願望のロケットを発しています。
たくさん幸福の預金口座に入れておきながら、引き出さずに命を絶つなんて勿体ないものです。

 

鏡ばかり見て嘆く人生は終わりにしましょう。
いくらでもやれることがあります。

間違ったこだわりは捨てて、変な思い込みは捨てて、
あなたの思いが報われる人生、あなたの成したいことが成される人生を歩みましょう。