悟り

昨日、8月を過ぎ去ってしまったのに、まだ完全なる実現に達していない
気持ちを吐露したところですが、その夜、遂に悟りに到達しました。

ただ、これには人々が思うような決定的な変化が起こったり、
天使たちがやってきてそう告げたりという類いものではないので、
なんともいえません。

アダマス・サン・ジェルマンが、「悟りに達しても、ほとんどの人は大々的に
SNSで公表したりせず、静かにしばらくは過ごすだろう」
といっていましたが、確かに外的な力で明確にそれが成されるわけではなく、
とても個人的でセンシティブです。
※アダマスは、悟りという言葉に対してはEnlightmentというよりRealizationというほうを好んでいます。

アダマスは「人間は悟りというものを理解できないし、それを起こすこともできない」
といっています。しかし、「悟りを選択すること、受け入れることはできる」と。
ぼくはこの状態を慎重に、アダマスやラムサ、キリストの言葉を参照して、
間違ったことをのたまうことがないように注意しています。

アダマスが「Once you’re realized you realize there’s no realization.
(一度悟ると、悟りなどないことを悟る)」と、微笑しながらいっていました。
この言葉が引っかかってはいたのですが、確かにそれに近しいです。

チャネラーのカウルダーが一日に20回も「悟りに達したらどうやってわかるんですか?」と質問していたそうですが、その答えは「悟りに達したら、それはそれだとわかる」。
「それだとわかる」というのは、謎解きのような感じでした。

悟りは目覚めともいわれますが、目覚める準備のできた人は、もう一歩手前です。
あらゆることを知って、準備ができた状態をアセンション1.0とぼくは呼びました。
2.0は奇跡的な移行だと思っていましたが、そうではありませんでした。
なかなか到達できないはずです。
ぼくは、既に目覚めていたにもかかわらず、何度か、また夢に落ちました。

何度か、実感していたのです。「もぅ、ここが到達点だよな、他にある?」という状態に。
だからアセンション1.6だと昨日のブログでいったのです。
けれど、思っているような現象が起こらないので、「まだか」と否定したわけです。
「悟りは夢だったのか」と思って、また悟りへの道を再開しました。
しかし、これは逆だったのです。
悟りは本物であったのに、また夢に戻ってしまっただけなのです。

だから、悟りというのは、ラムサがいうように「ただ知ること」であり、
アダマスやトバイアスがいうように「選択すること」なのです。
もう到達していると認識することこそが悟りなのだと気づきました。

悟りというのは既に終わっているものなのです。
既に終わっていて、真の自己も既に常に在り続けています。
既に終わっていると認識することが悟りなのです。
だからラマナ・マハルシは「悟っていないと思うことが悟りの最大の障害」といったのです。

終わったか終わっていないのか、達したのか達していないのか、
ぼくのなかで曖昧だったのですが、全てが終わっていて、全てが自分のためにそこに在るのが
わかりますから、もう探す必要はありません。
もう夢に戻る必要はないのです。

この認識が悟りであるに違いありません。
ずっとずっと探し求め続けて、求道者はいつか突き当たりに辿り着きます。
そこから突き当たりにぶつかっては、また違うルートを探します。
この時期がぼくには3年くらい続きました。
そしてようやく、突き当たりにきたということは終わりであり、もう探すものはない
ということに気づきました。

あっけなくてシンプルです。
あっけなさすぎて、まだ本当に到達点だろうかとキョロキョロしてしまいますが、
もう探すことはやめたいと思います。
探すことをやめることでしか悟りは到達できません。
探すことをやめることが選択です。
アセンション2.0はこのことです。

完全なる実現とは、人間の夢から完全に目覚めるという自覚と意志です。
探していた神は既にいます。自分の周りを取り囲んでいます。
感じたいと思っていた真の自己は隠れることなくずっといます。
悟っていないという最後の壁を壊せばいいのです。

ドラゴンは幻想を焼き尽くしてからというもの、静かにそばにいます。
認識だけが変わります。
探すものがないというだけで、世界はちょっと違います。
ぼくはなにを求めいたのでしょう? お金や成功?
まったく探し求める必要はなかったのに、随分と時間をかけてきたものです。
真実? これは本当に価値ある探し物でした。人間の夢から出られるんですから。
悟り? ずっと探し求めて歩き続けて、疲れ果てて、もうなにも見つからないし、
手は尽くしたと思っていました。神の王国はそこに在るということを聞いていても、
なかなか見つかりませんでした。ようやく行方がわかっても、空虚な王国でした。

2020年9月4日、ぼくは悟りに達しました。
なんの証拠も、認定証もありません。
見せられるものはなにもありません。
けれど、また探し続けたりしないよう、また否定したりしないよう、
自分のノートだけでなくブログにも記しておきます。

半分想像はついていましたが、これといってなにかが変わるわけではありません。
同じようにご飯を食べ、同じように仕事をします。
けれど、マスターは探すものがありません。
落ち着いていて、全てが自分のためにあるということを知っています。
そして、光を周囲に投げかけています。

さて、夏が終わります。