サミュエル・ベケットの「ゴドーを待ちながら」という作品を知っているでしょうか。
ゴドーを待っていて、ゴドーは最後まで現れないという不条理演劇の名作です。
これをちょっとしたインプロとして、アクティングスクールでやってみたのですが、
そこで見えてきたのは、演劇や芸術ではなく、人間というものでした。
普段インプロをやるときは、目的設定をしているのですが、
この作品の場合、ゴドーを待つという目的はありますが、ゴドーは現れないので、
目的達成は出来ません。
主要登場人物は、ウラジミールとエストラゴンの二人ですが、二人とも浮浪者という点で同じで、
特に違いはありません。
普段演技をする上で、必ずある葛藤や対照がないまま演じてみると、
全然自由に演じていいのですが、なにかしらの目的を見つけようとしたり、
浮浪者というアイデンティティに固執したり、その場をなんとか成立させようという働きが見えました。
これらはとても人間的だなと思いました。
浮浪者というのは、たいした身分ではありません。
でも、「何者でもない」よりはずっとましだったりします。
「何者でもない」感じで演じていた役者は、相方が浮浪者らしさを出していたことに
嫉妬すら感じていました。
わたしたち人間は、なにかアイデンティティを持っていたいものなのです。
それから、「何も目的もない状態」つまり「未来を持たない・目指さない」状態で
いることが難しいということ。なにかしら、過去を参照したり、未来のためになにかをやろうとしますね。
そうした過去や未来を持ち込まず、「今に在る」ことの難しさも感じました。
人は、それに慣れていないのです。
2人組で演じましたが、なにかしら相手の役者に頼るそぶり、すがる素振りも見られました。
通行人が現れたときには、それがゴドーなのか、相手に確かめていました。
また、ゴドーとは誰なのか、漠然と人だと思っていても、もしかしたら人ですらないかもしれません。
固定概念を持ってしまうという危うさも見えましたね。
ゴドーを待つという、なにかしら行為に従事していれば安心するというのもあり、
結局ゴドーはどうでもよかったりします。
これも、人はよくあるなぁ~と思いました。なにかしら安心したいと思っていますね。
「ゴドーを待ちながら」をやってみて、様々な「人間というもの」が浮き彫りになりました。
これまでの演劇とは、まったく違う視点の提示の仕方。
だからこそ、この作品は有名になったといえます。
非常に面白いなと思いました。