前に、テレビのバラエティー番組で、兵庫県西宮神社の有名な「福男」
に本当に福が来たのかを調べる企画がありました。
その結果、一番福の人たちは、皆散々な一年を送っていて、
二番福だった人は、結構福の多い一年を送っていたそうです。
これはなぜなんでしょうか?
まず、福というものは消耗するものではないということをいっておきます。
抽選で、前列に来れたことで、運を使い果たしたというのは当てはまりません。
運を使い果たすということはないのです。
ただ、満足して、それ以上のものを引き寄せなくなることはあります。
注目したいのは、一番福になった人が、一番幸福になれる信念を持てるはずだということです。
信じることが、強烈な願望実現になるのは皆さんご存じの通りです。
一番福を信じられる人が、なぜ福に満たされた一年にならなかったのか?
やっぱり、他力本願になり、自分で創造するエネルギーが衰えてしまうのが問題ではないでしょうか?
神様の力で、福になれると考えているのでしょうが、自分の人生は自分で切り開くものであり、
創造の力は自分にあります。
二番福の人は、二番ということで、自分はかなり調子がいいと思いつつ、まだまだだなと思っていたことでしょう。
それくらいの状態の方が、良いかもしれませんね。
ぼくも、自分が一番だと思っていると、怠けますね。
エネルギーの注ぎ方が弱くなります。
リラックス、リラックスといいますが、他力本願すぎるリラックスは、
創造の力になっていかないことでしょう。
そうすると、人生は、波風を起こして、奮い起こすわけです。
ちなみに……錦織選手の準優勝も、長い目でみればすごく良かったといえますね。