せっかくだから、楽しさの考察について、
もう少し書き綴っていきましょう。

ぼくは、よくこんな風に思索しているのです。
だから、スッキリした状態でずっと暮らしているわけではなく、
すぐに自分自身の見直しを始めてしまいます。

ですが、理想的なのは、疑問のない暮らしです。
疑問は疑問を引き寄せ、波動が解決から遠ざかってしまいますからね。
もうすぐ40歳になりますが「不惑」となるよう、道を急ぎます。

 

これまでも膨大な思索がありましたが、
ブログなどで書き綴ることはほぼなく、成果やエッセンスについて書いたり、
セミナーで紹介したりしてきたくらいです。

今回の楽しさの考察は、ぼくにとっても大きな落とし穴に感じたことなので、
醜態をさらしながらも、皆さんと共有したいと思います。

 

さて、前回話したように、楽しさとは、
新鮮さや変化、没頭、感謝などにキーがありそうです。

変化のない世界で楽しさを感じるのはまず不可能なのではないでしょうか?
実際には、大なり小なり変化があります。
例え、ずっと牢屋暮らしであっても変化はあるでしょう。
変化という波動に、同調していけると、小さなことであっても楽しさを感じられるでしょう。

しかし、期待がもっと大きな変化を要求していて、
目の前の変化が単調極まりない、日常的な仕事の繰り返しであれば、
波動は同調できず、そのズレに苦しむことになります。

ぼくの場合、それが見られました。
ですから、結果を求めないということをかつて学びました。
そして、最近は結果の波動に、同調する術というものを実験していました。
(ブログには書いていません。テレポーテーションの話をした頃です)

 

演劇活動を思い返して、いつも同じような光景が広がっていることに、虚しい気持ちになり、
創作意欲が低下したのです。

ぼくのクライアントで、抜群のチャネリング才能を持つ方が、
ぼくのジレンマを感じ取って、「先生は演劇を楽しんでいませんね」といってきました。
それから彼女は、「場所は関係ない」ともいいました。
「先生の才能が泣いている」と。

そこから、ぼくは楽しさの探究を始めたのです。

これでも、場所に関係なく、結果に関係なく、楽しさを最大限感じながら
演劇活動に取り組もうとしてきました。

しかし、確かに本当の楽しさには至っていないし、同じ光景が見えたら虚しい気持ちになります。
(同じ光景とは、お客があまり入っていないという状態です。作品は大変好評価です)

ほんの一部の人だけに知ってもらい、喜んでもらうためにぼくは演劇をしているわけではない。
それこそ、自分の才能が泣いている、と思うのですが、
「場所など関係なく表現していくのだ」と、そんな声をキャッチしたといいます。

 

性能が悪くビジー状態の多いパソコンはイライラするものです。
これもまた、自分の期待する変化の速度と、目の前の現実の変化の速度がマッチしない、
ジレンマだといえるでしょう。

パソコンであれば買い換えることが出来ます。
人生であれば、ソースと調和の取れたダンスを踊ることが肝要です。

自分から合わせにいけば、ソースの処理速度がむらなく生かされ、サクサク変化していくでしょう。

しかし、ビジー状態でも、楽しさを感じられなければいけません。

 

まず、目的をあまり持たないことかなと思います。
先を急ぐから、イライラしてしまうわけです。

それから思考の働きを抑制することでしょう。
イライラを感じるのは思考です。

静も動も、同様に幸福感を感じることが出来れば。

身の周りには、常駐している昔ながらの波動があります。
それらはモメンタム(勢い)を持っています。
それらも邪魔です。

うまくいきそうなときほど、出現するでしょう。

例えば、パソコンがビジー状態の時、
「よし、この間に英単語でも見直そう」
「よし、この間に瞑想でもしよう」
と思い立ったとしましょう。

しかし、「急がなくていいのか、時間が無駄になっているぞ」
「そうだ、パソコンを買い換えるべきだ。ちょっとネットで調べてみよう」
という具合に、焦らす思考が芽生えたり、意味のないことをさせる思考が
芽生えたりするものです。

 

物事に没頭する、物事に集中するには、
古い常駐する波動を一掃する必要があります。
誘惑は四方八方からやってくるものです。

ブッダの教えのように、厳しい心持ちで心を鍛えるのもいいですが、
あらゆるとき、あらゆることに不平不満が生じず、楽しむことが出来ればいいわけで、
微細なこと、変化の乏しいことに対していかに楽しむことが出来るかを今考察しています。
そして、「本当の楽しさ」を見つけようとしています。

 

昨日は、同じ演技のレッスン、同じビジネスプライベートレッスンでしたが、
少し違う感覚で行うことが出来ました。

そもそも、なぜ抵抗が生じるのでしょうか?
この完璧な世界にいて、ソースの完璧な働きをよく知っていて、
自分の選んだ場所と肉体があるのに。

どうして不平不満が生まれるのか。
おかしなものです。
エゴが勝手に提示してくるだけです。

まったく根拠がないことを思い出しました。

無条件の世界にいるならば、無条件に楽しむことが出来るはずです。

また、「楽しさの考察」については、話すと思います。