どうあっても個があるんですよね。自分というアイデンティティーがある。
最近古いノートを見返してみて、ぼくはずっと乾いていたなと思います。干からびるほどに渇き、なにかに希望を見いだしても、鉄のカプセルのなかで大爆発を起こし、鉄のカプセルは壊れず、ぼくは灰となる。
ただただ学びを深め、悟りの道を歩き、苦しみながらも人生を変えようとしてきました。
過去においてどうあっても個がありました。その自分の個はずっと乾いていました。
アダマスの言葉の中に「真の自由と自己愛は同じもの」というのがありましたが、ぼくはなかなか結果を出せない、人生を変えられない自分に耐えることを強いてきました。灰になっても歩み続けることを強いてきました。「本当につらかったよね、苦しかったよね」と労いました。
古い自分と新しい自分に分割する体験があり、古い自分を抱きしめ、見送るということをしました。
その時間はとても短いもので、古い自分は泣き、嗚咽し、新しい自分はそばで寄り添っていました。ほんの一分程度のとても短い時間。新しい自分は古い自分を見送り、そして分割しているような時間は終わりました。
最近のシャウドでアダマスが古いアイデンティティーを捨てるという話をしていますが、まさに自分にも起こったことで、強烈な体験とともに、古い自分が剥がされました。
人間はなんと自分という個を保持していることでしょう。珠玉の智慧を身につけマスターになったとしてもそれは個のなかであったりします。真の自己になるためには人間の個との粘着を解かなくてはいけないでしょう。人間の個は単なる演劇の役のように使いこなせればよいのです。
ぼくは外の世界と内の世界という話をしてきましたが、外の世界にも二つの層があると気づきました。それはコントロール出来ない大衆意識の作り出す外の層。そしてその内側にも層があり、自己の体験が反映された世界です。
外の層に対しては距離を置きます。世界を変えようとか、良くしようとか、陰謀論とか、そういうのは外の層に干渉することとなり、身を滅ぼします。
内側の層に対しては、完全に自分の人生ではあるのですが、同化してしまうと、欠乏や不平不満が止まりません。いわゆる人間ドラマの巣窟となります。内側の層に対しても、なにも介在させないのが究極の在り方です。そうです、個の自分を、内側の層に対しても介在させないのです。
それがallowing(受け入れる)の超重要な本質でした。ぼくは、個のアイデンティティーとして受け入れることを必死になってやってきましたが、個から離れないと、本当にallowingすることはできません。そのことに気づきました。
この、なにも介在させない生き方をピッタリと表現するなら、いにしえの言葉でもある「この世にありて、この世の者でない」生き方です。
介在させないとは、価値判断しない、期待しない、不平不満を言わない、泣き言を言わない、問題解決しない、コントロールしようとしない、ということです。
アダマスらが口酸っぱく同様のことをいってきたのが、今ならとてもよくわかります。ぼくもずっと心に刻んできましたが、その心は個のアイデンティティーの枠のなかでしたから、介在させないということができていませんでした。
古い自分の叫び、懇願、忍耐、疲労。それは幾度と灰から立ち上がらせ、悟りの道を歩ませました。
今、愛の抱擁とともに解放してあげる時です。真の幸せは既に存在しています。
なにも介在させない、あるがままの生き方。
この世にありて、この世の者でない在り方。
個を介在させないことで、「私」は究極の幸せのなかにいられるのです。