生きるとはとても主体的なことです。
「生かされている」というのも事実ですが、あなたの主体的な意思に背いて生かされることはなく、神があなたに人生を届けているのはあなたが主体的に生きているからです。

スピリチュアルの学びの中で、「与えられている、生かされている」というのは大事な智慧ではありますし、「流れに任せる、受け取る」ということも大事なので、とても意識してきたことだと思います。
しかし、「あまり受け取れていないな、退屈だな、つらいことばかりだな」そのように感じてきたなら、今一度すべては自分次第だということを考えてみてください。

ぼくは、「もっと喜びを感じて生きたい」と思っていました。しかし、あまり喜びが届けられることはありません。自分の内側から喜びがわき上がってくることはありません。喜びに感じることもあまり起こりません。
「もっと豊かさを体験したい、もっと表現したい」そういう強い思いがありながら、実際の人生とはズレがあります。
そして、真の自己との内的対話のなかで、ちょっとした認識のシフトが起こりました。その話をしましょう。

まず、喜びは勝手にわき上がってこない、と。
自分が喜びを感じ、喜びそのものになることで、喜びというものがわき上がる
つまり、主体的に自分から喜びを感じるという発端があってこそ、喜びが人生で体験される。
豊かさについても、自然に勝手に豊かさがわき上がってくるわけではなく、
自分が豊かさを感じ、豊かさそのものになることで、人生経験でも反映されていく

もちろんこれは新しい事実ではないのですが、ちょっとした認識のシフトがここにはあります。
どこか受動的になっていて、真の自己は別物であるという認識感がありますが、
完全に主権である自己に連動してしか、喜びも豊かさも実現化してはくれないのです。
ここがポイントです。

だから一瞬一瞬、1日1日を、マスターとして、愛と喜びと豊かさなる存在として過ごしていく必要があり、「マスターなんだからそれに見合うものが届けられて当然だ」と待つだけではピース不足なわけです。
マスターとしての主体性、存在性、主権の自覚、指令、実行が必要だというのです。
ラムサや神との対話でも、日々マスターとして体現しながら生きていくことが説かれていましたね。

現実世界ではエゴの投影や他人の創造の影響で、げんなりすることもありますし、不足や欠落も見えるでしょうが、どんなときでも愛と喜びと豊かなる存在として生きていく一貫性が大切になってきます。

その秘訣としては、自己が完全に純粋で、外側の実現化に関係なく、豊かで幸福であると知ることです。秘訣といいながら極めて難しいことです。

金持ちであろうが貧乏であろうが、健康であろうが病気であろうが、人気者であろうが独りであろうが、豪邸に住んでいようが牢屋に住んでいようが、外側関係なく、完璧で満たされているという真実は人間側からは理解しようがないことです。しかし、理解でき、その通りであると完全に腹落ちするなら、日々偉大なるマスターとして生きることはたやすいでしょう。

まだ外側を頼りに判定してしまいますよね。外部の世界や置かれている状況、起こる現実と関係なく、いつだって完璧で幸せで愛と豊かさにあふれていると認識できる人は、更に進んだマスターです。