不足感・欠乏感の話をよくしますが、非常に重要なテーマです。
人は不足感があるから、努力したり、苦しみもがいたりします。そして人間ドラマを創造します。
悟りのマスターにになると、そうした人間ドラマを創造しなくなるのですが、それとともに不足感というものがなくなり、「全ては在る」「豊かで在る」というマインドになります。

不足感を手放すことを長年意識しても、神の豊かさや自分を取り囲むエネルギーの無限さを心底よくわかっていても、不足感は拭えるものではありません。
不足人間が、不足を手放そうとし、豊かさを意識しているだけで、抜け出せてはいないのです。

不足の裏側にはメリットがあります。
努力をしたり、獲得したりするのは、人間ドラマの中で賛美されます。そうした体験をしていきたいほとんどの人たちにとってメリットがあります。足りないからこそ、ないからこそ、人間として、自分として頑張れるのです。
だから、根本的に変わらないと、手放したくても手放せないでしょう。

不足感を手放すときは、飽きたときかもしれません。
もういいや、もうこれ以上いらない、となったら、メリットはないので手放すことができます。
不足であることに飽きるならそのときです。
既に十分飽き飽きだと、あなたはいうでしょう。
しかし、獲得しようとしたり、お金や地位や異性がほしいと思っているなら、やっぱり不足感が存在しています。それらを手に入れることに関心があるなら、不足感に対しても関心があるのです。
恐ろしい組み合わせですね。
愛や自由や豊かさを手に入れることに関心があるのなら、恐れや不足にも関心があるということです。
いや、まさか、と思うでしょうが、どうもその線が濃厚です。

これまで手に入れらなくて苦しくて苦しくてたまらなかったものへの関心がなくなれば、
不足感を手放しているでしょう。
あなたはいくらか手に入れているのです。あるいは十分に手に入れているのです。
しかし、もう魅力を感じないな、満たされないな、と思うわけです。
もうこれ以上追い求めても、この先もたいしたことはないな、所詮こんなものだ、もういいや。
すると、あなたは不足感を手放します。

ずっとずっと不足感を元に生きてきました。
不足を解決するために技術と技能を身につけ、賢くなり、強くなりました。
でも、結局あまり満足できていません。

マスターの生き方は、不足感を元に追いかけ、手に入れようとするものではなく、
「全てはある」という豊かさを軸に、体験していきます。
ただ受け取り、使い、表現し、体験します。
あらゆるものが既にあるからです。

ほしいものへの関心がなくなっても、あらゆるものを使って体験したいという関心はあってもかまいません。ほしい、という原動力から、使いたい、表現したいという原動力にモデルチェンジします。まるで子供が目の前のおもちゃに夢中になるように、そのとき与えられたものにフォーカスを当てて夢中になるのです。

この状態は、とても自由で解放感があります。

不足感を手放そうとし、なにもしない生き方をしていると、退屈することがあります。
別になにもしないのがいいわけではありません。なんでもしていいのです。
不足感にまつわる葛藤も捨ててください。コントロールするのは困難です。
不足感を拭い去ろうとすることで、不足感がまとわりついてくるのです。

あなたの周りにあるものを使って、好きなことをするのです。
なにも関心がないなら、静かにしていればいいでしょう。自然とやりたくなるまで。

真の自己は、絶対的であり完全であり、純粋です。
表の自己は、いつも不足感をまとわりつかせてきました。そして人間ドラマばかりを創造してきました。
今こそ、全てがある、その豊かさとともに創造する時です。

ほしいものはもうありません。