この世界から離れて神の王国に足を踏み入れた人
神とともに今に在ることができるようになった人
ソースの視点、キリストのヴィジョンを会得した人
二元性に惑わされずありのままを見られるようになった人

こうした境地に到達した人は実に少なく、
有名どころだと、エックハルト・トールクリシュナムルティです。

クリシュナムルティ(1895-1986)は若くして世界の救世主候補として神智学協会によって見いだされ、
星の教団を率いますが、神秘体験後、のちに解散します。晩年は執筆や講演活動を精力的に行いました。

クリシュナムルティの本は「瞑想録」しか読んでいませんが、
書かれていることは確かにその通りですが、そんじょそこらの求道者にはついていけない内容です。
実際、彼はインドで長く活動をしながら、「誰も変わっていない」と嘆いたくらいです。
不思議なことに、世界中で彼は人気のある講演家・哲学者・宗教家であったのに、
熱心に話を聞いていた人は「変わっていない」「変わった気になっている」のでしょうか。

もしそうなら容易に想像できます。
エゴが満足しているだけだからです。エゴは問いを投げかけ、答えを得られるのを楽しんでおり、
その実、変わりたがりません。巧妙に姿形を変えますが、エゴはエゴのままなのです。

最近までクリシュナムルティの本はぼくもついていけないところがありました。
「少し行き過ぎちゃった人かな」と思うところもありましたが、
「愛のコース」で変化したことによって、ほとんど共感できるようになりました。
だからこそ、言葉選びを気をつけないと、本当に一般の人にはこの境地はわからないな、と思います。

クリシュナムルティは「思考を全的に放棄する」といっているように、
この境地では、エゴの主な役割である過去のデータを使って思考するということを放棄し、
ありのままに現在を見ます。

脳みそは消えてなくならないので、思考はあります。
「愛のコース」の翻訳されていない第二部では「Art of Thought(思考の技術)」という言葉が出てきますが、
思考の使い方を「Ego-minded Thought(エゴ的思考)」ではなく、あるがままを受け入れ、
神視点でできるようにします。

わたしたちが当然のこととして受け入れている、優劣や貧富、個性や価値観のほとんどを
重要視せず、見えなくさせます。

わたしたちはあらゆる物事にレッテルを貼っていますが、レッテルの一切をなくします。
個人的に得ることはどうでもよく、進んで与えることで全体が得をするような意識になります。

「こうした生き方のなにが楽しくてなにが幸せなの?」
と思うかもしれません。
ぼくも、その答えは今のところ完全につかめていません。

だから、エックハルト・トールとクリシュナムルティを見て、
彼らの楽しさ、幸せさを知ろうとします。
内的な幸せは、外からではよくわかりません。
ただ、二人とも、世界に執着しなくなったものの豊かさを手に入れていますし、人に多くを与えています。
一方、二人とも老いているし、クリシュナムルティは癌で死んでいます。
聖人として有名なサイババも死にました。ブッダだって死にました。

真の到達がどういう状態なのかわかりません。
クリシュナムルティは、ブッダのようにアセンションしたのかもしれませんし。

謎の多き霊的な究極の境地ですが、
この境地に到達して、真の楽しさ・真の幸せを体現しているロールモデルが現れないと、
なかなか人はそこを目指していけないだろうなと思います。

自らの完全な実現

ちなみにぼくの「奇跡のコース第1巻Text」は、たくさんの線と手垢がつけられています。
それだけ頻繁に読み返してきたのですが、1000ページ近い分厚い本のなかで、
ぱらぱらとめくってよく飛び込んでくるのが「完全な実現」という言葉です。
ここ1~2年、何度も目に入ります。

この完全な実現こそ、今回話した境地への到達を意味しますが、
一歩(数歩?)手前で足踏みしているような感覚です。

あともう少し。

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