ずっと願望実現法を教えてきた立場でなんですが、わたしたち人間は、願望実現に囚われているなと思います。まるで病気のように、生きている間、願望を叶えるために奮闘しています。

神とは自動願望実現システムのようなもので、本来備わっているものです。
しかし、人間が願望を実現させようさせようとすると、自動願望実現システムが誤作動を起こします。
たくさんのシグナルに混乱してしまうのです。

今回、願望実現がある種の病気だと思った理由を説明しましょう。

願望は自然発生的に生まれます。
それはトイレに行きたいとか、発表された新曲を聴きたいとか、新しい服がほしいとか、
日常レベルでも様々に起こります。
しかし、これらのことを願望実現法を使ってまで叶えようとはしません。
皆さんはもっと大きな願望を抱いて、長期にわたって取り組みます。
それは、経済的な自由だったり、大会の優勝だったり、会社の業績アップだったり、車や家だったりします。

こうした大きな願望を叶えること=喜び、幸せ というマインドをみんなが持っています
しかし、問題なのは、ほとんどの状態で願望が実現されていないということです。
例え、願望が叶えられても、またすぐに新しい願望を設定するので、常に実現していない不足・未達の状態でいることになります。
全人類的には、そうやって新しいものがどんどんと生まれて進化しているので、悪いことではありませんが、個人レベルでは、ずっとせわしく動き回って、なにかを追いかけ、回し車を回しているような人生です。

そして、人が抱く願望実現の多くは、他人が関与しています
ビジネスの成功も他人いなくては成立しません。社会のニーズを読み取り、他人が求めるものを提供することで報酬を得ます。
そのためにSNSでフォロワーを増やしたり、バズらせたり、広告を打ったりとがんばりますが、それも他人なくしてはできません。
何かに勝ったり優勝するためにも、負ける他人が必要です。
アイドルになりたいとか、高級車がほしいとかは、他人が作り出す社会から影響を受けて生じた願望です。
承認欲求というように、他人からの承認や評価や報酬は、願望と深く結びついています。

常に他人や社会から受けた刺激で、願望を作り出し、それらを追いかけています。
わたしたちはなんのためにそれをやっているのでしょうか?
憑かれたように願望を追いかけて、不安や落胆や絶望も体験しながら、
これこそが生きることだと、古びて疲れ果てるまで、願望を追いかけています。

なにかおかしくありませんか?

魂は生きていることが幸せであり、好きなことをしていることが喜びです。
優勝とか車とか家とか資産とか名声とかは興味がありません。
他人の承認や評価など微塵も必要としていません。

魂は、唯一無二の自己を地球上で表現したいと思っています。
創造とは、獲得や評価のためではなく、自己を表現し、体験し、喜びを得ることです。

その根本から考えると、他人は必要ありません。
本当に自分の好きなことを純粋に楽しんで取り組んでいる人は魂の意図とも合致しています。
そんな人の行為は、他人の目に入らないかもしれないですし、多くの人を感動させるかもしれません。

他人や社会から影響を受けて、他人や社会に合わせ、他人や社会から評価や報酬をもらうために願望をつくりだして、その実現のために奮闘している人とは異なります。

願望実現病でないので、満たされていることが多いでしょう。
純粋に今の行為を楽しめるなら、その時点で満たされています。
その結果として、富や名声や勝利ももたらされるかもしれませんが、それはあとからついてくるものです。

五条院凌というピアニストの演奏は本当に素晴らしいと思うのですが、
彼女はピアノを通して音楽と戯れ、自己を表現しています。
有名になるためでも、金持ちになるためでもありません。
だからテレビ番組が勝者を決めるものであっても、彼女は他の出場者の演奏を心から賞賛できます。
同じように音楽を楽しみ、美しい音楽を奏でている人を賞賛するのです。

そして、音楽と一体となって戯れるという極めて自分本位な行為が、
多くの人にも伝わって感動してもらえるということをよく知っています。
他人のために表現するのではなく、自分のために表現することが他人のためにもなっているということをよくわかっているのです。
派手なパフォーマンスや、癖の強さに、彼女を嫌う人も多いでしょうが、そんなことは本人は気にしていません。人はそれぞれ違うということをよく知っています。
彼女は魂の欲求に委ねた結果そうなりました。

ぼくも、長く願望実現病でしたし、願望実現のモチベーション以外の創造の仕方がよくわからずにいたのですが、五条院凌を見ていると、ぼくも演劇に対してそのようになれればなと思います。

ぼくの魂は、願望を実現させようとしていることに対して、とても手厳しいです。
大きな願望を実現させようとするエゴと、他人なんか気にせず自分を表現し、好きなことをしていればいいんだという魂との間で、長いこと諍いが続いていました。
遂に屈服させられたエゴは、後ろに引き下がり、「じゃあ喜びや幸せを見せてみろ」といいます。しかし、魂は「私にはそれができない。君がやるんだ」といいます。エゴは、「だから追いかけてきたじゃないか、ベストを尽くしてきたじゃないか」といい、魂は「そのやり方ではダメだ」といい、そして冷戦状態になりました。

実現のためでも、成功のためでもなく、獲得のためでも承認のためでもなく、
自分が自分であり、自分の体験したいことを体験し、物質世界で戯れるために生きていくのです。
もしかしたらそれを見つけることは大変かもしれません。
他人の影響を受けて、人と同じような願望を抱くことのほうが簡単かもしれません。
心から追求したり、表現したいと思えるようなことに出会えないかもしれません。

全く新しいところから探さなくてもいいのです。
他人からの影響や惰性でやってたことが、考え方を変えることで、
魂も乗ってくるようなものになるかもしれません。

これまでやってきたことがあり、それが実を結んでいないというのであれば、
もしかしたら願望実現病のせいかもしれません。
そうであれば見方を変えてみてはどうでしょうか?
夢を実現させるために頑張るのではなく、その行為・その表現手段そのものを愛して、追求し、心のままに楽しむのです。