コロナから、2年ばかりなにもせず、よく公園で座っていたり、悟りのノートに書き込んでいたりという生活でした。まぁ、それなりに舞台を創ったり、劇場の運営や演技学校の授業をしたり、講師養成講座をしたりとしてはいるのですが、はっきりいって熱中していないです。

せっかく助成金がおりたので12月末に新しいスピリチュアルシアターの舞台をやろうかと思ったんですけど、気持ちがあまり動かず、今回は見送ることにしました。

昔は、野心や、不足感を埋める挑戦が情熱の核でした。
そうしたものの虚しさに気づき、マインドのできることは結局たいしたことないという
思いから、人生の中で情熱的なものがなくなりました。
魂からパッションはやってくるといいますが、悟りを極めるパッションはずっとありますが、
それ以外にはあまり出てきません。
静かな時期をずっと過ごしてきました。
人からは色々なことをやって忙しいですね、といわれがちですが、実際は暇つぶし程度にやっているだけです。

ただ、今は公園のベンチに座っていたり、ラムサやアダマスらから学びを深めたりということもあまりなくなりました。
シンプルに、目の前に”父”が広がっていることを感じられるからです。
もう学ぶこともないのです。ここが悟りの世界ですから。
あとは神を体験する、愛を行使する、与える、そんな人生の展開だと思っています。

マインドのできることといったら、本当に限定的です。
それでもかなりのことを達成してきたのですが、この宇宙を調和の中で動かしている神と比べれば、間違いは多いし、限界は多いし、狭いしで、とても微力なものです。
それでも、幻想を見続け、体験できる、マインドの機能はすごいものですが。

ラムサが風になろうとしたのは、人間を超えた壮大な神と溶け込みたかったからです。
そして、彼は溶け込むことに成功し、つまりアセンションしましたが、
それでいて人間としての彼が失われることないことに感謝しました。

壮大なる外なる神と溶け込んでも、自己が失われることはなく、
それどころか、なおも物質世界の中での喜びや幸せを届けてくれます。
人間マインドをちゃんと生かせながら、より広大なレベルで体験をサポートしてくれています。

外なる神である”父”の存在を感じます。
しかし、まだマインドの映し出す世界に閉じ込められているとも感じます。
もっと自由で、もっと情熱が湧き出る、そんな人生へとシフトしていきたいです。

マインドの機能の特徴として、目の前に起こる出来事に対処しながら、
望むものを手に入れようとするのですが、これは過去に基づいた思考の反応なので、
結構日常的にこうした形でマインドが外へと投影されてしまいます。

風になるかのごとく、溶け込んだ感覚を得て、そこにとどまりたいものです。
マインドが小さな世界を投影させていても、それはそれで悪いことではなく、
神のサポートもついているし、楽しめばいいです。
変にジャッジメントして、不安になったり、あれこれ行動化で解決しようとしているときは、よりマインドの投影が複雑化しているときなので、落ち着いてゆっくり呼吸することですね。