グナラタナさんの「エイト マインドフル・ステップス」を読んでいくついでに、
このわかりやすいブッダの教えに関して、もっと突っ込んだ解説をしていきたいと思います。

仏教の教えや、長老の教えを否定するつもりはありませんが、
読んでいて、この人たちはブッダの言葉を顔面通りにしか受け取っていないのでは?
と思ったのです。

聖書もそうですけど、言葉が抽象化されて、二重の意味を持っているのであれば、
かなりスピリチュアルに深い智慧がある人でないと、裏の意味がわからないと思います。

 

今日取り上げるのは「苦(suffering)」です。

エイブラハムはこの世は楽しいものだといいます。
しかし、釈迦は「苦」だといいます。

矛盾がここにあるのでしょうか?

これを、「確かに生きていると苦しいことがたくさんあるな。
生・老・病・死……確かに嫌なものかもしれない」

というのでは、表の意味だけに過ぎず、一般人向けの解釈にとどまります。

 

どういう風にこのことを捉えればいいのかというと、
「苦」は、ソースから離れて、調和が出来ていない状態だと思って下さい。

それがどういうときかというと、現実に目を向けて、見えない世界ではなく見える世界しか見ていないときです。

であれば、生きてから死ぬまで、私たちの多くは、ずっと「苦(ソースと調和していない)」であるといえます。

矛盾がなくなりますね?

 

年老いることと病気は、現実にフォーカスを当て、調和から外れるほど生じるものです。

生まれてから、見えない世界の智慧を全て忘れ、現実に没入します。

そして、それが死ぬまで続き、多くの人が死を恐れ、不満足のまま死んでいきます。

 

「苦」から脱する方法は、ソースと調和することです。

エイブラハムならきっとそういうでしょう。
釈迦は、ソースと調和せよとはいわず、神と同じエッセンスの行動をせよ
(つまり正しい行いをせよ)といって、
どんな人にでもわかりやすく、実践しやすい形で
指導したのではないでしょうか?