最近思いました。
日々、色々な事をするなかで、やりたいと思うこと、なかなかやらないこと、やるべきだと思っていることなど
混在しているわけですが、充実感ややり甲斐に感じるものは二種類に分けられるなと思います。

 

一つは形のある達成

これは、なにか形として結果が出せる仕事です。
例えば、期日までに課題を終わらせる、パワポの資料を作成する、HPを作成する、
ブログを書く、動画を撮る、など形があり、Finishがあります。

ぼくは、これが多いし、目の前に現れるこれらを繰り返しFinishさせていくことが世にいう多くの仕事なんだと思います。

 

もう一つは形のない成長

これは、Finishがないけれど、自分にとって大切であり、
スキルアップや自己成長に繋がるものです。自主的であり、普通これは仕事とはいいません。
例えば、英語の勉強、読書、映画鑑賞、筋トレなどです。

成長なので終わりはありません。いくらでもやれるし、いくらやっても終わりが来ません。
終わりは自分で定めるしかありません。
TOEICの点数が出たり、最近博識になったな、など、なんとなく形として現れますが、あやふやな形です。

ぼくは、これが少ないし、やりたいと思っているのに、ぐずぐず後回しにしてしまいがちです。

 

しかし、後者の方が、絶対自分にとって大事だと思います。

目の前に現れる「やるべき事」をこなす仕事は、
それ自体なにかをやってる感があり、満足感や充実感を得がちですが、
ベルトコンベアーに載せられたタスクをただただこなしているだけともいえます。

そのプロセスのおかげで、会社の業績になったり、自分の収入になったりしているわけで、
必要ではあるのですが、これらに生活が支配されていていいはずがありません。

 

この形のない成長のために、時間を大量に注ぐ人はアスリートです。

遥か遠くにある、勝利や成績向上のために、日々自分のスキルアップにエネルギーを注ぎます。
逆に、ビジネスマンのような形に変える仕事はしたくないでしょうし、満足はしないでしょう。

どちらにも充実感はあるでしょう。
アスリートであっても、トレーニングの回数を設定して達成することで充足感を得ます。
これは、一応数字という形として現れるものですが、うまく自己成長のために使っています。

 

ぼくの場合、形を求めるきらいがあって、
プレゼントとかも、消えてなくなる食べ物や入浴剤や枯れてしまう花より、
形に残るもののほうが好きです。

Oh, my god.
演劇などでは、形に残らない芸術性や感動を重視する割に、
それ以外では形や物質を求めるのです。
(まぁ、舞台も映像で残したりしますね)

自分の成長のためには、形のない、結果のない、Finishのない行動に対して
見方を変えて、これらにも充実感があり、これらは仕事よりも大切だと気づかなくてはいけません。

この「気づき」だけで、変化は起きます。

英語の勉強や筋トレが、億劫に感じて続かないのは、
形を求める必要がないのに、形を求めるマインドでやろうとしてしまっていたからです。
だから、永遠と続くことに、1時間も2時間も割けない、
それよりも1時間2時間で形として結果を出せることをやろう、となってしまいます。

こんなところにも結果を求める悪い癖が反映されていたんだなぁ、と驚きです。

自己の成長のためにすることは、形や結果を求めてはいけませんね。

クルム伊達公子がテニスに復帰したとき、これでもかというくらいトレーニングを積むようになったそうです。
それは、ブランクを取り戻すためでも、結果を求めるわけでもなく、
(もちろん潜在的にはそれらもあるのですが)
自分を追い込んで成長することが楽しいと気づいたからだそうです。

こうしたアスリートの姿勢は、とても学びになりますね。